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2020 / 03 / 02
私とステラ・アドラー演劇、そしてリンクレイターヴォイス その3
冷たい雨が振っています。発表会とワークショップの無くなったここ数日、自分の歩く距離は通常の半分どころか、10分の1にも満たないんじゃないか!と思い、35分かけて駅まで歩いてみました。河原には咲き始めた雪柳がもうすぐ白波のように沿道を埋め尽くすでしょう。
うちには、大きな雪柳がありました。幼稚園の卒園式で制服姿の私と着物に羽織姿の母がその前で撮った写真があります。だから、雪柳のイメージは卒業式。今日は雨に濡れて一つ一つの花が泣いているように見えます。お別れを言えずいきなりすべての荷物を持って帰った小学生、中学生、高校生それを送り出した先生方。雫がその思いのよう。
さて、その3です。
海外の演劇学校や大学の演劇科には、必ず「Voice and Speech」というクラスがあります。これはどういう事かというと、演劇を志す人は必ず声をしっかりと学ぶ場があり必須科目ということ。そして、その内容はヴォイスパート(非言語)とスピーチ(言語)の両方だということです。これを日本で教える時には、訳すのにどうしようか悩みました。今は非言語と言語と言っていますが、もっとわかりやすく言えば、ヴォイスはあ〜〜あ〜〜など言語以前の音です。言語はそれが編成されて私たちが使っている話し言葉です。日本人なら日本語、英語圏の人なら英語、中国なら中国語、様々です。
演劇は声です。声を自由にしないかぎり、演劇はずっと不自由さから脱却出来ません。ですので、専門の先生がしっかりとその両方を教えてくれるようになっています。
ステラ・アドラー校の片隅の日の光も入らない教室に集まった、ヴォイス&スピーチ1のクラスは6人くらいでした。そこにエレーナ・マックニーという先生が入ってきました。名前からしてアイルランド系なのは間違いありません。彼女の第一印象は、その顔に喜怒哀楽のすべてが同居している、というものでした。エレーナは、自分を「リンクレイターヴォイスの資格講師だ」と紹介しました。一冊の本「Freeing the Natural Voice」を提示し、その創始者のクリスティン・リンクレイター女史のことも説明しました。その人は、スコットランド人で、ウォッカを飲む。そこだけ聞き取れましたが、エレーナがクリスティンのことを敬愛しているのは、すぐにわかりました。
クラスは円座で始まります。彼女の自己紹介があり、そして、何か質問は?という問に、一人の若い学生が手を挙げました。「あなたは今結婚しているって言ってたけど、なんで指輪をしていないの?」ひどく私は驚きました。一体全体この若僧は初対面の先生に対して何を聞くんだ?平然とエレーナは答えます。「あ〜、なぜなら、私の結婚は今問題を抱えているからよ。」
これにもまた驚かされます。私だったらそんなこといきなり初めて会った人に言うわけない、言えるはずないじゃないか!なぜなら、私自身も同じ問題をその時に持っていたからです。
とにかくすべてが想定外の始まりに訳も分からず、エレーナの指示通り、目を閉じます。なにやらジャラジャラと音がします。「Open your eyes.」さあ、目を開けて。目を開けたその先には思いがけない色とりどりのクレヨンが山積みになっていました。飛び込んで来た色彩に思わず声を上げました、「あ〜!」
生徒たち、私が何度も皆さんに言ってきた、無意識下の反射、そっちのほうが優れている。この「あ〜!」がそれです。リンクレイターヴォイスでは、その人自身が持って生まれた生のままの声を再び自由にしていくものです。声を扱うのに、なぜ視覚から入るのか!(前述のステラ・アドラー演劇も視覚からでしたね。)みなさんも最初は驚いたでしょう。なんせ最初の何日かはいわゆる発声すらしませんでしたからね。でもそうなのです。私達がおぎゃーと生まれて、すべてに対して何の遠慮も邪魔するものも、ありがたいことに言語も無い状態で、反射的にあ〜あ〜う〜ぎゃ〜〜い〜〜と、様々な音を出せていた状態から、なんと現在の自己は様々なことに囚われ不自由になってしまっていることか。それを紐解くには、像を結ぶ力と、創作力と、しっかりとした解剖学の知性も必要なのです。
日本で生徒を教えるようになってからも、私は日本語ということで日本文化が私たちどういった影響を与えてきたかを探求を続ける必要がありました。この本はそういった意味で、自分が教えていることに確信を持たせてくれた名著です。「内臓と心」三木成夫先生著。
ちょうど良いですね、もしまだ読んだことの無い人がいたらこの待機時間に読んでみて下さい。この「Ⅲ-こころの形成」の「1章指差し、呼称音、直立」から「2章言葉の獲得」「3章三歳児の世界」では、とてもわかりやすく私達が言語を獲得していく過程をお話してくれます。私達は目で見たものに対して、絵と重ね合わせあ〜〜〜〜と声をだしている。そこからが自己のヴォイス=声=音の始まりなのです。言葉=象徴的概念はこういう過程で私たちはごく初期の幼少期に会得している。こうなってくると、クラスがどうして骸骨模型を必ず使って、700万年前に立ち上がった祖先の話から始まるのかは納得のいくところでしょう。その人に抽象的概念が無くて、どうやって演劇で人が動かせましょう。
時間をハリウッドのステラ・アドラー演劇学校のヴォイス&スピーチ1の教室に戻します。自己の声を絵にしてみた私は、子供に戻ったようでした。そしてネチネチしたクレヨンを握りしめ瞬発的に描いたものはすでに私の創作物であり、驚くほどに自己の真髄をついていました。今までの声をがんばってがんばって出すというのとはまったく違うアプローチ、こんなやり方があったんだ!何度も歌劇団在団中に声を潰し、しかもそれがメンタルが原因だったことをずっと恥じていた私は、「もし、これを在団中に知っていたら、私の宝塚生活は違っていたんじゃないかな…..」きりりとこころの片隅が痛みます。
エレーナの観察眼はまだまだそんなものではありませんでした。
その4に続きます。