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2017 / 11 / 25
硫黄島での声「太陽」「風」「雨」「島」…..そして「猫」その2
「硫黄島での声 太陽、風、雨、島….そして猫」その2です。
その1はこちらに→https://noriko-tosaka.com/news/1870/
ここは慰霊の島でもあります。
硫黄島の戦い….1945年2月19日から、3月26日まで、一ヶ月と一週間のまさに死闘の記録。
あの時から時間を止めている島のそこここ…..
自衛隊の方が「部外講師島内研修」として、丁寧な説明を加えて島を巡って下さいました。
それは、私の知らないことばかりでした。
硫黄島には民間の人はほぼ入ることは出来ません。
現在は、航空自衛隊の方たち、建設業者、遺骨収容の方たちが滞在出来ます。
実際、この島に住んでいらした方ですら、現在簡単に島に入ることは出来ないという事実。
故郷なのに…..
今回、「部外講師」としてこの研修を受けられたことに感謝して、私が見たこと、聞いたことを真摯に書いていってみようと思います。
〜雨〜
この島に来た人は、かならず、天山の慰霊参拝からスタートします。
「硫黄島戦没者の碑」
厚生労働省の管轄です。天皇陛下がいらした時もここで参拝されました。
天井が吹き抜けになっているのは、水が無くて苦しんだ兵士たちが
潤沢に恵みの雨にあたれるようにとのことだそうです。
参拝は各自帽子を取って、自衛官のK野さんの号令「姿勢を正して、黙祷!」から
始まります。お線香とお花を供えて、手を合わせます。
たっぷりお水を飲んで下さい。
〜島〜
硫黄島の大きさは東京都の北区くらいだそうです。だけど、その位置が大きくこの島の運命を決定します。
グアム島と本州の真ん中に位置しているゆえ、この島での日本とアメリカの激戦が避けられないものになりました。
当時、島には沢山の人たちが住んでいて、資料館には小学校の集合写真や当時の村の様子がわかる手書きの地図もあります。
最高司令官の栗林忠道陸軍中将はこの島に着任してすぐに島民を疎開させます。結果この島では軍人同志の決戦になりました。
つまり、一般市民は死ななかった戦いです。
これが理由で、この島には様々な慰霊塔や記念碑がありますが、日米ともに慰霊することが出来る島になっています。それは、
一般市民が巻き込まれた戦地ではいわゆる敵国の慰霊碑を建てるのは心情としても難しいものがあるわけで、ここはそれが可能なのです。
あらためてこの島が特別な場なのだと思いました。
1985年に建立された再会慰霊碑には日本の国旗とアメリカの国旗が並んでおいてありました。
こちらは英語です。
“我々同志は死生を越えて、勇気と名誉とを以て戦った事を銘記すると共に、硫黄島での我々の犠牲を常に心に留め、且つ決して之れを繰り返す事のないように祈る次第である。”
アメリカの圧倒的な兵力と武器に対して、日本の守備兵力は約21,000名。そのうちの約20,000名がこの戦いで命を落としています。が、アメリカ軍は戦死6,821名・戦傷21,865名の計28,686名の損害で、太平洋戦争(大東亜戦争)後期の上陸戦でのアメリカ軍攻略部隊の戦死・戦傷者数が日本軍を上回った稀有な戦いであり、死闘だったのがわかります。
どうして、ここまで圧倒的勝利を予測していたアメリカ軍を手こずらせ、結果一ヶ月と一週間もこの島の陥落を伸ばせたのかというと、作戦を説明してもらうと、そういうことだったのかとわかります。
栗林忠道陸軍中将は、地下に司令室を作り、兵士を潜らせます。
壕を掘らせたのです。
海辺で戦わず、地下で待つ。
この壕に入ることが出来ました。
ここは、島の北にある医務科壕です。
沈黙してなお多くを物語る日常のものたち。
息遣い、人の気配が無いといったら嘘になります。
何よりも私をうちのめしたのは、硫黄島は火山でもあるので、いつも硫黄の匂いと共に、
地熱がものすごいのです。壕の奥に入ればもう数秒で顔から汗が吹き出します。
壁を触れば、「アチ!」と手を引っ込めてしまいます。
暑かっただろうに…..
壕の外に出て風が汗だくの我々を冷やしてくれるのですが、当時はどんなだったのだろうと思うと
やるせなくなります。
こちらは、兵団司令部壕。知将栗林中将が司令部をおいたところです。
それも壕の中です。
ここは壕の天井が低く、栗林中将の司令室は、157センチの私がギリギリ立てるくらいの高さです。
ですが、奥に入るときは、這いつくばって頭もガンガンぶつけながら匍匐前進しないと移動出来ません。ヘルメットが必須だったのがわかりました。
もちろん、地熱地獄。ここで、栗林中将は、兵士たちは、どんな思考を巡らせたのでしょう…..
資料室で、栗林中将が息子「太郎」ちゃんに書いた手紙の写真をみましたが、絵もお上手だったようで、挿絵が沢山。
そこには、家族思いのお父さんとしての文章しかありませんでした。
この方のご遺体はいまだわからないままです。品格を保ち、決して兵士たちに万歳攻撃はさせず、最後まで士気を鼓舞したそうです。
なぜ…..
本土に敵を上陸させないために、この島を1日でも長く死守する。
案内してくださったK野さんはほんとに良くお勉強されていて、いろいろなお話をしてくださいました。
書ききれないのが残念です。
壕の出口には今も日の丸が。
銃弾の跡。思ったよりも大きくて驚きました。
壕を出たあとの我々。ヘルメット、軍手、懐中電灯は必須。さすがに笑顔になれなかったです。
〜太陽〜
11月でも気温は湿気の無い夏のよう。
その太陽にさらされるままになっている、かつては火を吹き、島を轟かせていた鉄の塊たち。
顰蹙でしょうか、自然の中に居るそれらは、崇高な美しさすら感じます。
声が聞こえてくるし、音もずっと流れ続けてる。
鉄と草木が一体になれることがあるのですね。
最初はカメラを向けることすらためらわれたのですが、これを見た方が感じたことが次ぎに繋がるのかもしれません。
千鳥飛行場戦闘指揮所跡は、なんと飛行機の外側をコンクリートで硬め、使っていたようです。
なんとなく飛行機の機内ってわかりますか?
壁の日の丸…消えかけています。
これはトーチカ
今もこの中の銃口は上陸海岸に 向いています。
ここも吹きっさらし。なにも保護はされていません。
いつしか朽ち果てるまでここでずっと海を見ているのです。
クリント・イーストウッド監督の映画「父親達の星条旗(原題Flags of Our Fathers)」を観るとこの地下に潜っての
作戦がいかにアメリカ軍を驚かせたかわかります。
この中でずっと待機していてギリギリ目の前に敵が来るまで待っていた日本兵士。
波濤万里超えての上陸戦、しかし想定外の静寂の黒い浜を突き進まねばならないアメリカ兵の恐怖。
この兵士達を想像するとどうしていいかわからなくなり、
私の心は、そのまま風になってしまいそうです。
「椰子の実」 作詞:島崎藤村、作曲:大中寅二。
名も知らぬ 遠き島より
流れ寄る 椰子の実一つ故郷の岸を 離れて
汝はそも 波に幾月旧の木は 生いや茂れる
枝はなお 影をやなせるわれもまた 渚を枕
孤身の 浮寝の旅ぞ実をとりて 胸にあつれば
新なり 流離の憂海の日の 沈むを見れば
激り落つ 異郷の涙思いやる 八重の汐々
いずれの日にか 国に帰らん…..その3に続きます。