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2020 / 03 / 25
私とステラ・アドラー演劇、そしてリンクレイターヴォイス その8
東京オリンピックが延期になりました。今朝の新聞は一面大きな見出しです。ラジオからの声も、桜前線を伝えながら、ほんの少しの涙声だったような気も、いやむしろ明るく話そうという気合も感じたり。ですが、ひとつ決定があると、次に行きやすくなるのは確かです。それが未知の世界なのはいつでもそうですね。どうやったらクラスを継続出来るのか、どういう方法でクラスを再開するのが今のこの状況で一番良いのか….見極めたいです。
ティムのテクニーククラスは最初の可視化(ビジュアライゼイション)、公園の場に居るエクササイズと進み、「スピーチ」に入ります。いくつかのお題の中から各自1つを選び、その賛成派と反対派の両方のスピーチを作って皆の前で演説することです。ティムからのお題は、「移民問題」「妊娠中絶」「銃規制」この3つでした。
当時の私は面食らってしまいました。どの内容も自分にとって遠い出来事でした。ティムは言います。小さな場所でななく、大きな場所で、世界中に宣言しても良いくらいのスケールで、と。
今でこそインターネットで何でも調べられる時代ではありますが、この頃のしかも専業主婦であり宝塚歌劇団以外では働いた経験の無い私にとって、この背景を調べるというのは、骨の折れる、かつ新鮮な体験でした。選んだのは、「銃規制」これしか選べなかったというほうが正直なところです。しかしながら、私の育った日本では「銃」というものが身の回りにあったわけでもないし、体験としてまったく「銃」について親身に考えたことはありませんでした。過去の自分の体験ではとてもじゃないけど、追いつかないわけです。
アメリカの図書館で子供向けの絵本のコーナーには「銃」についての絵本が並びます。もしお友達のおうちで遊んでいて「銃」を見つけた場合、もしくは目の前の弟や妹が「銃」をみつけちゃった場合、どうするかを絵本でわかりやすく説明しています。こういうことは普通に起きるからです。1992年、アメリカのルイジアナ州で起きた、日本人留学生が射殺されてしまった事件は当時私の記憶に悲劇としてはっきりとありました。これらを構築して自分の「銃」反対派のスピーチは比較的楽に出来ました。私自身も共感したからです。困ったのは「銃」賛成派です。
では、いったいどういう人が「銃」賛成として、世界中に宣言してもよいスケールでスピーチをするのでしょうか?調べていけば、未知の世界が広がります。開拓民としてのアメリカの歴史、少年が大人になるためのひとつの儀式的な存在。巨大なビジネスや政治的な癒着など、知らないことばかりでした。それを論破出来る強烈なキャラクターが必要になります。これを信じ、正義として、盲信している人です。
だんだんこのエクササイズの意味が見えてきます。「正しい」「間違っている」を芸術に問うのは意味を成しません。が、しかし、確実にあるのは、「強い」か「弱い」です。強烈なエネルギーとして人を射抜く矢になれるか、すとんと足元に落ちていく脆弱な矢を放つか、その違いがパフォーマンスを決めます。そして、もうひとつは、俳優はいつでも、広い視野で物事の表裏を見ていかなくてはならないのです。たとえ自分がそのどちらかにしか共感を持てなくともです。
私は強烈な「銃」盲信のアメリカ南部の婦人を作り、当日、ティムの前で2つのスピーチをやりました。
さて、生徒の皆さん、私のスタジオのクラスでスピーチをやったとき、私の課題は日本のみなさんに向けてのものに変えています。「原発問題」「相撲の土俵に女性が乗ってよいか」「AI戦闘機」「沖縄の基地問題」「夫婦別姓」「赤ちゃんポスト」でしたね。みんなはそれぞれ賛成、反対派のキャラクターを作るためにその背景を調べて自分の言葉にしたと思います。しかしながら、私はまだもっと出来ると思っています。動作、仕草、声、言葉、すべてが合致して初めてそのキャラクターが宿るのですが、近年私がイスからずり落ちるような強烈なキャラクターを持ってきた人は残念ながらいません。選択が少し弱くなっているのは否めません。
最近じつに私がこれぞスピーチと思った人がいます。もし、クラスで皆に会えていたら、またしてもこのことを嬉々と話したでしょう。それが、前回も書きました昆虫博士の小松貴さんのスピーチなのです。彼の語気、語彙、昆虫がすごいという信念。すべてがラジオから聞こえてくる声で伝わります。たとえば、「蛾」という言葉が何度も出てきますが、その「蛾」はただ、我々が言ってやりすごす「蛾」ではないです。聞いたことも見たこともない「フサヒゲサシガメ」など昆虫の名前がめくるめく出てきますが、その形態や様相が小松先生の言葉から見えるようです。それはなぜなのでしょう。彼に抜きん出た「観察眼」があるからだと私は思っています。彼が詳細に像を結びながらの言葉なのです。専門家ならではの「観察眼」です。
俳優にも、その「観察眼」が欲しい!!!人間を観察する眼です。
当時、両方のスピーチを終えた私は他の生徒たちのスピーチも聞き、自分の世間知らずを思い知りました。どこかで俳優というのは、世界知らずで少し浮世離れしてたほうが良いのだと思っていたわけです。そんなこと、ステラ・アドラー演劇学校では許されませんでした。いつでも、クラスでは戦争や貧困、差別について語り合い、自分たちはいつでも時代を映し出す鏡であることを、この「スピーチ」の課題あたりから自覚し始めます。「言葉」が人を変えていくのです。
私のスタジオで「アンネの日記」やヒロシマの劇を作るときも、やはりユダヤ人の人を見つけ出し、話を聞きにいったり、被爆者の方からのお話を直接聞くということろから始めますが、その前にここ数年はやらなくちゃいけないことがあります。まず生徒にこのことを「知っているか?」と聞くことです。最近では「知らないです。」という答えが多いです。「アンネの日記」も、アウシュビッツも「知らないです」という返事、ともするとえ!日本ってアメリカと戦争していたんですか?ということもあります。知らないなら知らないで知る機会が無かっただけの話しです。ですが、では知ろう!まず新聞を読んでと言います。ネットで自分に集まってくる情報だけで満足しないで、少なくとも監修の入った公共の「言葉」に触れていて欲しいと思います。それが想像力を培い、興味を持ち、共感を起こしていくことだと思います。演劇を志すならそこを飛ばしてはいけないのです。
さて、上記の「近年みんな弱くなっている云々」という文章を読み、クラスの皆さん悔しく思っているなら、小松先生のスピーチの言葉をまず真似してみて下さい。その勢い、語気、選び取る言葉、どうですか?「蛾」を小松流の観察眼を持った「蛾」と言って見て下さい。「カルチャーラジオ科学と人間 虫たちの不思議な世界」ほら、強烈なキャラクターが宿ってきませんか?動作や言葉によって生じるもの。これこそがここからどんどん学んでいく大切な核になっていきます。
body voice and mind
その9に続きます。