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2017 / 11 / 28
硫黄島での声「太陽」「風」「雨」「島」…..そして「猫」その3
〜風〜
隊員の方が作った詩に「風はどこにでも行ける」
という言葉がありました。
たしかに、島に吹く風はすべてを知っています。
風になびく星条旗。一枚の写真はこの戦争の勝敗を決定するくらいの
強烈な感動とインパクトをアメリカ国民に与えました。
硫黄島の南にある摺鉢山が陥落したときに、星条旗を掲げる瞬間を撮ったものです。
長引く戦争に疲弊していた国民に「この戦争にきっと勝てる!」という希望を与えたのです。
事実、硫黄島での勝利は、アメリカのB29が日本の本土を空襲するのに飛び立つ飛行場を手に入れたことを意味します。
そこから空襲は止むこと無く、広島と長崎の原爆投下まで、一気に敗戦へと日本は突き進みます。
これは「米軍戦勝記念壁画」
良くみると、写真は6名ですが、レリーフは4名。
なぜでしょう。
光と闇の表裏。”英雄”とは何かと考えさせられるこの写真の背景のエピソード。
6名のうち3名は戦死。残りの3名は”英雄”として、戦争資金の国債を買うキャンペーンに連れ回されます。
映画「父親たちの星条旗」は史実に従ってその3人の兵士のその後の人生を描いて行きますが、
そのうちの一人は、今でいうPTSDとサバイバーギルトでアルコールに溺れていきます。
結果その兵士はこのレリーフを作る時に、そのような不名誉な事は、恥として外されたそうです。
もう一人が外された理由はわかりませんが、いずれにしても、悲劇としか言いようがありません。
もうひとつ、このレリーフに近づくと、銃弾で撃った穴が沢山あります。
硫黄島はアメリカの退役軍人の方や、遺族の方も慰霊のために訪れます。
ある人はこのレリーフを見て、讃えられてるのがこの人たちだけだと感じて、怒りで銃を発砲。レリーフは穴だらけになりました……
ナイフで掘った名前も沢山刻んであります。英雄はこの4人だけでは無いのだ、ここに刻むんだ。
固い岩に刻まれたNAME…NAME ……名前
レリーフは少し風化して表面は丸くなっているように見えましたが、一人一人に思いがあるのが痛いほどわかりました。
資料館には遺骨収集で集められたもの、武器、弾薬、手榴弾。悲しくなるのは、手榴弾が陶器の容れ物で作られたものもあって、鉄が無かったからでしょうけど、ほんとにそこらにある陶器に火薬を入れて持ち歩き、最後にはそれを破裂させるなんて…陶器の手榴弾は初めてみました。
他にも、島民の方たちが慌ただしい疎開命令でおうちに残してきた日常の器やお皿。資料、本や写真も沢山あり、特にアメリカの写真集は、当時の最高のカメラで腕のいい戦場カメラマンがフィルムで撮ったもの。瞬間を永遠に残すことに成功しています。先にも書いた2本の映画は、これらの写真を包帯の巻き方一つまで、正確に再現しているのがわかりました。
ショーケースのメガネ……その向こうのお顔の目は、何をみたのですか……
沈黙
我々も言葉なく、ゆっくりと見てまわることが出来ました。
色とりどりの花が咲いている「鎮魂の丘」や「平和記念公園」。
それぞれ天山と一緒で水への意味を深く持って、水をためて流れるような設計になっています。
作った方たちの思いも伝わります。
これは、「硫黄島戦没者顕彰碑」
無くなった方の出身地のそれぞれの石で出来ています。これをみると全国各地からこの島に来たことがわかります。
同郷、異郷、どんな会話を交わしたのでしょうか。
宝塚音楽学校時代、全国各地から来た同期生がすみれ寮で寝食を共にしました。北の青森の子と南の宮崎の子では
お国訛りも全然違っていて、青森のRK子は、あんまり寒くて口が動かないから「私、それ食べるから、あなた、それ食べなさい」が、
「わ、け、な、くぅ」になるんだよって教えてくれて、みんな大笑いしたり、宮崎の子が「だるい〜ってときは、よだき〜って言うだよ」って教えてくれたりしたことを思い出しました。
辛い壕の中でも、兵士たちにも違う方言が混ざり合い、笑い合う時間がきっとあったと思います。楽しい時間、笑い合う時間。歌う時間。恋する人を思う時間…..
〜すみれの花咲く頃〜 作詞白井鐵造
春すみれ咲き、春を告げる
春なにゆえ、人はなれを待つ
楽しく悩ましき春の夢、甘き恋
人の心酔わすそは、なれ、すみれ咲く春
すみれの花咲く頃、初めて君を知りぬ
君を思い、日毎夜ごと、悩みしあの日の頃
すみれの花咲く頃、今も心ふるう
忘れな君、我らの恋
すみれの花咲く頃
その4に続きます。