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2015 / 08 / 15
中村雅俊さんのこと….「原稿」
ここでの雅俊さんは、あの雅俊さんでは無くこの雅俊さんです。
3月22日に上演した音楽朗読劇「あんしぃ〜ん」で、ご自身の学童疎開の体験を取材させて頂き、
当日はご本人にも出演して頂きました。おかげ様で、劇が終わった今でも、仲良くして頂いております。
雅俊さん、多才な趣味を持っておられ、その一つが、
「篆刻」手で石を掘って印を作っていらっしゃるそう。
私のも作って下さるというお言葉を頂き、お願いすることにしました!
「の」の字一文字の印です。
なぜこれをお願いしたかというと、私のスタジオではお月謝制にしておりまして、
生徒さんたちには世に言うお月謝袋を作り手渡しております。
毎月頂いた印として、伊東屋さんでみつけたゴム印の「の」の字を押していたのですが、
雅俊さんにちゃんと石で掘って頂いたものを使うことが出来たら、今後も一回一回印を押す時に、様々な事に感謝をコメられるのではないかという思いもあって……。
いやいや、一言で印と言っても、奥が深く、最初雅俊さんから送られてきたのは、見本の手書きのデザインでありました。
しかも、朱文と白文とあるそうで、気軽にお願いします!と言ってしまった私、恐縮してしまいました。が、当のご本人は飄々とメールで教えて下さるのですが、「の」の字は「乃」の字がもとらしく、
丸みと角のバランスがあったりで、一生懸命私に似合う「の」の字を考えて下さったようです。
ありがたい…..
私は漫画のお目目のように見える4番が気に入りお願いすることに。
10時と4時の方向に角もついていますが、丸みと強さの共生を感じたのも
これに惹かれた理由のひとつ。
うれしわくわくと出来上がる日が心待ちにしておりました。
そして、手元の届いた私の「の」の字です。
振り返ると、私が関わらせて頂いた劇は、アメリカ時代を含めて
様々な戦争体験をした方に直接にインタビューをさせて頂きました。
「A Thousand Cranes」では広島弁と監修を被爆者である村上啓子さんに。
「KAMIKAZE KATE」では、ロサンゼルス在住の特攻隊の生き残りでいらっしゃる
岡本春樹さん。
そして、「unseen ~あんしぃ〜ん」では、中村雅俊さんを初めとする、清島国民学校の卒業生の方たち….
どの方とも、戦争体験はおありなのですが、それに加え、
啓子さんはお菓子作りが得意で、何度も美味しいケーキを頂いたり、一緒に牛久のワイナリーで薔薇を見ながらお喋りしたり、
岡本さんはワインがお好きで、いつも素敵なインターネットで届くカードをアメリカから送ってくださって、文末はいつも「また美味しいワインを飲みましょう」(私はほぼ下戸なのに!)
雅俊さんに至っては、こんなふうに人生の大先輩として楽しく交流を持たせて頂き、
もしかして、私の劇をやる目的はこれなのかしらんと思ってしまうくらい、
良きご縁をつないで頂いています。
雅俊さんは、初演の時も今回も、劇中に当時の少年だった人が今語るという演出で
お話をして頂きました。
再演のお願いをした時、ご本人から今回は原稿を読んで話したいという要請がありました。
演出上は時空の変化をあまり出したく無かったので、原稿無しが理想だったのですが、
やはり、原稿を読みたいというご希望です。
初演時は大きな会場でピンスポットの中、朗々とお話をしてくださいましたから、
今回は客席が近い古民家だしむしろ問題は無いだろう、しかし失礼ながら、初演から5年も経っているのだもの、ご本人だってもしかしたら暗唱は不安なのかもしれない….そう私は解釈して「はい、では原稿を読んで下さい」と
お返事しました。
当日、雅俊さんが劇中で語り出した時、私はハッとしました。お話される内容が初演時とは違って、
最後にはしっかりとご自身の強い思いを語られていたのです。原稿を読みたいという意志は
この文章の現れだったのだと。
考えてみれば、5年前の上演の時は、いえ、アメリカ時代にだって、これらを上演していたときは、
私は「日本は戦争をしない」という前提の元に劇を作ることが出来ていたのに、
雅俊さんのお声をききつつ、今年2015年の今は、今までとは違うのだということに、
劇中の私は、愕然としてしまったのです。
ここに、雅俊さんの許可を頂き、当日読まれた原稿を
添付させて頂きます。淡々と語られる口調が素敵なのですが、書かれた文章を読み直すことも、
大切な時代になりました。
「原稿」
小学校三年から六年生までの児童が、集団疎開をするようになったのは昭和十九年の夏からです。当時六年生だった私も八月十五日に上野駅をたって、疎開先である宮城県の秋保温泉に向いました。そして、奇しくも丁度一年後の昭和二十年八月十五日に終戦記念日を迎えたのです。その日のことをお話します。
私は中学一年生で学校は夏休みでしたが、夏期講習のために埼玉県新座市にある平林寺境内の宿舎で合宿していました。正午から始まった玉音放送は、宿舎前の広場で全員直立不動の姿勢で聞きました。雑音の多いラジオでよく聞き取れなかったのですが、日本が戦争に負けたのだ、ということは分かりました。必ず勝つと信じていた私達は、ただただ呆然とするだけでした。
その日の夕方、私達は広場で体育の先生を囲んで話を聞きました。「いずれアメリカの軍人が進駐してくるが、心配するな、体さえ鍛えておけば、必ず乗り越えられる」と先生は仰いました。かつて自宅に泥棒が忍び込んだ時、見事に背負い投げでねじ伏せた、という武勇談で知られた先生でしたので、その一言に元気付けられたことを覚えています。
高台にあったその広場から遠くの町を見ると、明かりがこうこぅと光っていました。戦時中は爆撃を受けないように電気の笠に黒い布をかけ、光が外に漏れないようにしていたために、街はいつも真っ暗でした。ですから「明るい町」は大変印象的だったのです。今にして思うと、その光は日本が平和になることを暗示する象徴だったのかもしれません。
しかし最近の政治の動きをみると、果たしてこの平和が続くのだろうかと不安を感じます。戦争ほど人を不幸にするものはありません。70年もの間、戦争に巻き込まれなかったのは先進国の中では日本だけだと最近の新聞に書いてありました。平和な日本を守るために、私達に何ができるか、皆さんと共に考え、行動しようではありませんか。そう誓って私の話を終わりにします。